キハ58 広島色 |
キハ120 津山線 |
キハ28 6000 |
キハ40 広島色 |
キハ47 津山線 |
芸備線から伯備線への直通列車は新見〜備中神代間の布原駅に全列車が停車している。この布原停車は芸備線からの直通列車に限られており,伯備線の列車はキハ120型 使用列車を含めて全列車が通過するといふ珍しい扱い。備後落合・三次〜広島間に各2往復の急行列車が運転されている。下りの「たいしゃく」と上りの「ちどり」は備後落合〜備後庄原間は普通列車として運転している。後者は2往復とも「みよし」の列車名。車両はいずれも急行使用のキハ58+キハ28。 普通列車は備後落合と三次で運転系統が分かれている。新見〜備中神代〜備後落合間は津山鉄道部のキハ120型の単行運転だ。備後落合〜三次間は広島運転所のキハ120型で塩町〜三次間に乗り入れている福塩線の列車と共通運用だ。この福塩線の列車で朝の通学輸送対策のためキハ47型2両編成も運転されており,芸備線としても三次以東で唯一の在来型気動車だ。三次〜広島間は広島への通勤路線の性格が強くなり,キハ47型やキハ40型が2〜6両で使用されている。急行の間合い運用のキハ28・58で運転される列車もある。 |
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広島駅 ひろしま 明治27年6月 南区松原町2丁目 |
古代、新幹線駅ホ−ム側の二葉山麓はまだ波に洗われ、府中・牛田・己斐の渚で、南北朝の頃より天正年間まで江波・宇品・仁保・比治山は遠く海上の島であった。毛利輝元による築城のさい他の島より一段と広いということで「広島」と命名したと伝えられる。在来線とは連絡橋、地下通路で通じ、連絡橋の出口はそのまま駅ビルへと通じる。宅地化が芸備線沿線にも及び、市の中心地へと向かう路面電車、バスへの乗り換えでにぎわう。 | |||
矢賀駅 やが 昭和4年3月 東区矢賀5丁目 |
矢賀駅のまわりは、JRの車両基地、貨物駅、さらにJR広島工場と新幹線基地が大きくひろがっている。駅名の由来については、「芸藩通志」に駅家(しゃげ)→矢加屋賀→矢賀と呼ばれて現在に至る。 | |||
戸坂駅 へさか 大正5年4月 東区戸坂惣田1丁目 |
昔、戸坂入道という人が住んでいたところからの地名という。もう一説伝えられるも省略する。日当40銭、米一升が20銭の当時、広島-戸坂間の運賃は16銭で汽車に乗る人は無く広島へは皆歩いたという。駅の左手は斜面が迫り、右手は高層マンションや住宅が密集する傾斜地の先に太田川。 戸坂と広島の中心部は、牛田山や二葉山などの低い山で隔てられており、芸備線はこの山の東側を通って広島駅に到る |
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安芸矢口駅 あきやぐち 大正4年4月 広島県広島市安佐北区口田1丁目 |
国郡志に芸洲安北郡八口村とあり、一説にはこの地に家八軒あり、八口という。後に矢口といわれる。国名安芸と矢口で安芸矢口の駅名。駅の北側は、山陽自動車道の巨大な高架橋が東西に走り、西側は太田川の堤防。 近年急速に宅地化が進んだ。 |
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玖村駅 くむら 大正4年4月 広島県広島市安佐北区落合2丁目 |
玖村駅は元落合村字玖に設置され、玖の字は字名を用いたもので、何故玖村駅と呼称されるかについては判らない。駅は東の丘の上に高陽ニュータウンがひろがり、玖村駅のすぐ北で三篠川が太田川に合流する。 | |||
下深川駅 しもふかわ 大正4年4月 広島県広島市安佐北区深川1丁目 |
水量豊かな三篠川で布を晒していたために「布川」か、大変水量の多い勢いの強い川で「深い」という印象になり「深川」との文字を使ったか不明。広島市史話伝説によると1547年毛利元就は、次男元春に吉川家を相続させるため吉川興経を布川の地に幽閉とある。駅前の丘に高陽ニュータウンと呼ばれる高層住宅が建ち並び、ここを折り返し駅とする普通列車が1日に何本も設定される。一方の始終点は広島 | |||
中深川駅 なかふかわ 大正13年9月 広島県広島市安佐北区深川5丁目 |
「芸藩通史」によると寛永検地の頃には、「深川はもと布川につくる」とある。芸備鉄道敷設当時戸数も多かったが駅はできず、地域の人の駅への思いは強く、草競馬場を作ったりして大正13年9月開設される。駅の周囲は、むかしながらの黒瓦屋根の民家がかたまり、線路と接してガソリンスタンドがある。 | |||
上深川駅 かみふかわ 昭和23年8月 広島県広島市安佐北区上深川町 |
水量豊かな三篠川で布を晒していたために「布川」か、大変水量の多い勢いの強い川で「深い」という印象になり「深川」との文字を使ったか不明だが、いずれにせよ「川」と人の生活が密接であったため「川」という字が今日まで残ったものと思われる。 三次方面に抱岩トンネルの出入り口が見えている。 |
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狩留家駅 かるが 大正4年4月 広島県広島市安佐北区狩留家町 |
1819年「国郡志」編纂のため取り寄せた資料には、狩留家の地名の由来はわからない」とある。狩をする人が集落を作ったので狩留家・狩をする人を留める宿があったので狩留家・昔この地の高家の館に生まれた「かるが姫」の名をとったと諸説ある。昭和28年に建てられた駅舎。夏には改札口に「おつかれさま」と書かれた風鈴が吊るされ、下車印もある。 | |||
白木山駅 しらきやま 昭和38年12月 広島県広島市安佐北区白木町三田 |
白木山(889メートル)は、駅より北へ約4キロ、頂上までの所要時間約2時間の広島近郊における名山。山頂はひろい草原で、四方に視界がひらかれており、県下の主要な山はほとんど眺望でき、見事な雲海が見られることもある。東側の尾根を下ったところには黄金水という湧き水もありキャンプに最適。地元の請願により駅土地の無償提供、建設費全額地元負担によって設けられた駅。白木山からの駅名 | |||
中三田駅 なかみた 大正4年4月 広島県広島市安佐北区白木町三田 |
「三田」という地名は「和名抄」に「三田の郷は元高田郡内で七つの内の一つの郷」と記され、古くは大化の改新前の古書にも三田という地名が記されている。平清盛が宮島に厳島神社を建立する際、安芸吉田郷・安芸竹原の郷・三田郷の郷族が相計り献上したときより、吉田・竹原と共に三田荘が厳島神社の神領として広く知られる。駅のまわりには段々畑や柿色をした石州瓦の民家が散見され、西側は竹やぶの斜面が迫る。 | |||
上三田駅 かみみた 昭和23年8月 広島県広島市安佐北区白木町三田 |
三田村は三田三里と称され、東西に細長く駅がある吉永を含むこの地を上三田という。広島鉄道管理局発行『駅長さんの書いた駅名ものがたり』にはガソリンカ−のみ停車する三田吉永駅の名で昭和5年1月1日に開業したとあり、昭和17年に芸備線は全部蒸気列車となり廃止されたが、地元住民の駅復活請願運動、工費の地元全額負担によって上三田駅として戦後に復活した。 | |||
志和口駅 しわぐち 大正4年4月 広島県広島市安佐北区白木町市川 |
この地が近郷の中心であった賀茂郡志和の入り口ということから志和口と決定した。現東広島市志和町の志和の語源は平安時代から「志芳の荘」として、江戸時代には志和という記録があったという。 駅前にはタクシーが並び、コンビニもある。 |
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井原市駅 いばらいち 大正4年4月 広島県広島市安佐北区白木町井原 |
この地を井原村と称し、中心地を市と呼んでいたところからの駅名。厳島神社の古文書(応徳年間)に高田郡三田郷井村の記載があり、井原は井村から変わったことが推測されるJR運賃計算の際の「広島市内の駅」にふくまれるため広島市内よりという新幹線等の切符だとそのまま目的地まで行ける。 | |||
向原駅 むかいはら 大正5年4月 広島県高田郡向原町大字坂 |
は、新しい駅舎が昭和61年3月に竣工した。黒い瓦屋根をのせた鉄筋3階建ての堂々とした建物だ。1階に、地元の食品・日用品の店と地場産業振興センター。2階に改札口があり、2階に児童館がある。3階は大集会所になっている。駅事務室は2階にあり、業務は中国交通事業社に委託されている。駅前広場も同時に整備され、きれいなバス乗り場に備北交通バスが発着している。向原町が中心になって山村振興事業に組み込み、この新駅建設を実現した。 | |||
吉田口駅 よしだぐち 大正5年4月 広島県高田郡甲田町大字下小原 |
は新しい駅舎が平成4年(1992)夏に竣工した。木を生かしたニューデザインの平屋の駅舎で「プラットハウス」の名がつけられている。建てたのはJRではなく甲田町だ。戦国大名、毛利元就の居城跡がある吉田町は、この駅から西へ5キロのところ。元就の墓もこの町にある。また、甲田町はナシの特産地でもあり、駅には梨狩りに訪れた人を歓迎する看板も掲げられている。 | |||
甲立駅 こうたち 大正4年4月 広島県高田郡甲田町大字高田原 |
駅のある甲田町は昭和31年4月1日、甲立町・小田村が合併してできた。駅名は芸備鉄道開業当時の小田村長によって名づけられたという。 三次市に16キロ広島に52キロの距離にある。 |
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上川立駅 かみかわたち 大正4年4月 広島県三次市上川立町 |
芸備鉄道鰍ェ設立、鉄道敷設着工に当り地元日野氏が、敷地の大部分を提供されたという。開業時は「川立駅」であったが、昭和12年7月国鉄買収移管と同時に「上川立駅」と改称。 | |||
志和地駅 しわち 大正4年4月 広島県三次市下志和地町 |
当地は室町時代(1392)志賀の里といわれ、秀吉検地(1589)以前から志和地となっており、明治20年まで志和地村となっていた。室町時代から信長の天下統一まで当地は安芸の国吉田の地頭毛利氏と出雲の国の守護代尼子氏との合戦の地となっていた。 | |||
西三次駅 にしみよし 大正4年6月 広島県三次市十日町市原 |
大正4年(1915)芸備鉄道の終点として 開業した三次駅が現在のの西三次駅。 |
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三次駅 みよし 昭和5年1月 広島県三次市十日町中原 |
山陽路の広島へ67キロ、尾道へ75キロ、山陰路の松江に91キロ、江津へ106キロと中国地方の中央に位置し、古くから陰陽を結ぶ交通の要衝として栄えた。この地を通過する交通は芸備線・福塩線・三江線の鉄道網と国道54号(広島−松江)・183号(広島−米子)・184号(尾道−松江)・375号(呉−大田)等の主要幹線道がある。「みよし」のあけぼのは、出雲と大和の両文化の交流史に始まったものとみられる。大正5年に現在の三次駅より西のほうに備後十日市駅が開業。これが昭和8年に三次駅の現在地へ移転し、同29年に三次駅と改称。駅舎には軽食喫茶・旅行センター等の旅客施設と三次鉄道部の事務室がおかれる。 | |||
八次駅 やつぎ 大正11年6月 広島県三次市南畑敷町 |
八次村は、昔の幡次(はたすき)郷であった。後に幡布(はたふ)、八次などといったが元禄の初めから畠敷になった。明治22年町村制により4か村を合併してや次村になり、この地名を駅名とする。 | |||
神杉駅 大正11年6月 広島県三次市高杉町 |
神杉駅は大正11年(1922)、芸備鉄道の塩町駅として開業し、昭和9年までは東広島−塩町間の終点として賑わった駅でしたが、昭和5年隣に田幸駅が誕生し、田幸駅のあるところの地名が塩町であるところから塩町駅の駅名を田幸に譲り神杉駅と称した。三次県立歴史民俗資料館のあるみよし風土記の丘まで、駅より徒歩15分。 | |||
僕 が紹介します よろしく! 僕のペ−ジだよ(コタ君のペ−ジに間借り中) ここより 備中神代駅までは 別のペ−ジだよ! こちらもよろしく |