病気と恋と愛のお話 子供の病気がなかなか良くならなくて困っている人います 親が一生懸命看病している。むしろ、懸命に心配するから、子供は親の心配するようになろうとしている、なろうとしているわけではないが、親が大人の知恵をいつも押しつけているから、その利口な大人が心配するのなら、自分の病気は悪いに違いないと思う。そして大人が耳の聞こえなくなることを心配したり、歩けなくなることを心配したりすると、今度はそのようになってゆく。歩かないうちに、大人の考えるように自分は歩けないと思い込み、ひどくなります。 病気のとき、子供の前ではニコニコして、子供に心配ごとを話しかけているわけではありません。そんなことをわざわざ子供に言う親はいませんから。でも、目には見えない言葉では聞こえない親の心配を気で感じ取って、この子供が病気になっていったわけです。つまり親の気が不健康な、病の気だったのです。ここで取り上げた例と反対に、心から健全かつ元気な気というものを交流させたらどうでしょう。心と心の交流ですから、病気になっていた人も元気になってしまうのではないでしょうか。これが病気治しの気功法なのです。 心のエネルギーが大きいとき、それは言葉などよりもはるかに大きな力となり、相手に伝わるものなのです。 コーヒーでも何でもそうですが、味には人それぞれの好みがある。当然です。でも、それを勧める人が、これは本当においしいんだ、これは良いものだと心から思っている場合、そんな気が相手に伝わるのです。その気を感じて、それを飲んだ人はおいしいと思うのです。もちろん、あまりに好みとあわなかったら、効果はないのですが。 だから商品を本当に好きでもない。良いとも思っていないセールスマンが業績を上げられないのは当たり前です。そうなってしまうのは、心の交流という「気の感応」、この大きな力を無視しているからです。無視しているというより、気の感応を知らないから、仕方がありませんが。ですから、こういうことを知っていれば、もっといろいろな面で変わってくると思うのです。好きこそものの上手なれ…も好きであれば熱(気)がこもる。そこにエネルギーが生まれるからです。 言葉よりも心で 例えば男性が美子さんに恋をしたとします。 男と女の場合、かなりの部分で好みの問題があるので、どうしてもダメなことも多いでしょうが、気の力でかなり確率が上がるのではないでしょうか。告白するずっと前から、言葉なんて使わずに、一生懸命「好きだ」という、念というか気を送っておけばいいのです。言葉で「好きだ」と言ってダメでも、心の交流で動かない人は絶対にいませんから、この気を強くしておけばいいんです。こういう一種のテレパシ−は、誰でもあります。 人間でも、実は赤ちゃんは大変敏感なのです。 子供というのは非常に敏感ですが、とくに、赤ちゃんがそうです。 お母さんになったことがあれば理屈抜きでわかるでしょう。ヨシヨシと抱いていても、お母さんの気が赤ちゃんに集中していないと、赤ちゃんは、ギャ−と泣き出してしまいます。反対に、台所仕事をしながらでも、赤ちゃんを気遣って、意識つまり心を向けているば、抱かずに五メートル離れていても泣かないものです。 そのことを、証明しようとビ−ズのブレスとパワ−ストンのブレスの両方を近くに置き、赤ちゃんがどちらをとるかで実験したところ、どういうふうに並べ変えてもパワ−ストンの方をとるといったこともあるそうです。 「氷は、水から出来るが、水より冷たい。墨縄にぴったりするまっすぐな木も、たわめて輪にすると、コンパスにあってはまるほど、丸くなる。」 人間はもとの素朴な性より、抜け出ることができるが、そうさせる大きな推進力は学問であり、見聞であり、正しい人に親しむことであるという。一言でいえば「自身の環境整備」である。時代の流れに、即応できる人に、過去の自分をつくり変えることです。 自己変革することで時代の波に乗ること、時代にひきずられて傷つかないようにすることを、教えているのでは----- 人間というものは、他人は見えても、自分は見えないものです。自分を見たければ他人を通して、自分を見るほかない。 だから交際が必要なのです。 ただし、自分を映す鏡であるはずの他人が、ゆがんでいたり、汚れていたりすると自分の正確な像はつかめない。それゆえに正しい人に親しみなさい。 山をこわきにかかえて、海を飛び越すことはできない、といえばそれは本当にできないことです。しかし、目上の人に腰をまげてお辞儀することは、自分にはとてもできないといえば、それができないのではなく、しないのです。この説明は、わかりやすい。 私にはとてもできない、と思っていることでも、本来の能力はあるのに、ただやらないだけではないのか。 自分のつまらないプライドをすてて、もう一度、人や物事に接してみたらどうか。 そう教えてくれている。 人を愛することも同じことだ。身内の者を愛せても、他人を愛せないのは、愛することができないのではなく、愛さない、にすぎない。他人を愛さない人のもとには、人は寄り集まってこない。つまり、大事をなそうとするのであれば、まず、「身近なものに対する心を、そのまま他人に移す。 根本の心のあり方できていないで、遠くのものをもの求めようとする、その努力は、まるで「木に縁りて、魚を求めるがごとし」であるという。自分はがんばっているといっても、木に上って魚をとろうとするようなもので、その努力はむなしい。 過去は何も自分の後ろにあるわけではない。 自分が過去を作っているのだ。 家庭でも会社でも、知らないうちに流されてゆく。今日は昨日の続きであり、明日は今日も続きになってしまう。単調な流れでも。流れを意識できる人は、たいしたものである。そうではなく、停滞してしまうのが怖い。停滞は心の死である。 「自動車は移動のための機会」?それとも「空気を温めている機械」 熱効率百パーセントのエンジンは存在するでしょうか。 結論から言うと、そのような理想的なエンジンは、残念ですが存在しません。ガソリンの燃焼させて得られる熱エネルギーを百とすると、その内の三十七しかエンジンの運動に利用されません。熱効率三十七%です。 残り六十三は排ガスの熱エネルギーとなって捨てられます。もったいないですね。しかもその三十七全部が自動車の燃料になるのではなく、機械のいろいろなロスなどがあるので、結局は二十五ぐらいが最終的に自動車を動かすエネルギーとして使われのです。 この効率からみると、自動車は移動のための機械というよりは、空気を温めている機械であるといったほうがいいの かも しれません 。人間からみると自動車は移動の機械と見えますが、地球から見たら空気を暖める機械だというでしょう。見方や表現の仕方を変えると、氷がマイナスから零度を超えると水になり、水が百度を超えると水蒸気になる。本当は表現が逆で、氷が水になるところを零度とし、水が水蒸気になるところを百度にしたわけだが、要するにそこ超えると形態に変化が起きるわけです。そのように精神統一もどんどん集中していくと、あるところで突然、パッと意識状態が変化する。今は変性意識などという変な言葉が使われ、私も時々使うことがあるが、それは別に変性ではなく、ごくごく普通の意識であって、ただ、ある限界域を超えると係数が変わるようなものです。 そのような転換をいつもいつも体験しながら、だんだん意識が広がって自由になっていくのです。 ビルディングでも、電信柱でも、家でも、木でも、人でも、屋根でも、すべてのものが凄いバイブレーションを発して自分の生命の歌を歌っています。石であれコンクリ−トであれ、その中では分子、原子、電子が渦巻いており、その生命(波動)の波が響きあって、地球の上でまさに一大シンフォニ−のような壮大なドラマが演じられています。それゆえにすべてのものは平等である。そういう世界が自然と開けてみる見えてくるようになるのです。 その選ばれた出演者の一人が貴方です。今の配役や脚本が気に入らなければチャンネルを切り替えれば すぐに別のドラマになります。 そのチャンネルはどこに? 貴方の意識の中に貴方が変われば、ドラマも変わります 誕生石を決めたのはユダヤ人 誕生石の起源は、旧約聖書の「出エジプト記」に出てくる。イスラエルの祭司たちのための祭服の左わきの胸当てに、12の宝石を並べてつけなさいと、シナイ山で主がモ−セに指示されたもの。 12の宝石は、ユダヤの12部族を表すものだったのだが、これが後に十二カ月に割り振られることになったのだろう。その月の石がお守りと信じられ、人々が身につけ始めたのは十八世紀ごろのポーランドでだ。それも、ポーランドに移住したユダヤ人が広めたものといわれている。十二カ月ではなく、星座で決めているところも多いし、国によっても選ぶ石が違う。 元が伝承なので、厳密にこれが正しいとを言うものはありません。自分の心の中に何かの悩みがあるのなら、それは「取り越し苦労」か「消極的思考」かである 入念に省察すべし パワーストーンなび広島 > 見えない世界に何かがある |
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