●幸福の追求●
社会は目的があって存在している。かりに社会がなかったら、われわれは生きていかれない。
有史以来、人類はそんな状況を体験したことがないため、社会がないことなど想像さえできない。
社会の目的については、詳細な理論が数多く提出されている。簡単に言ってしまえば、社会は危険な人物がわれわれや共同体に危害をおよぼさないようにすることによって、われわれの生存を可能にしてくれる。しかし、そればかりではない。われわれはただ生きていればいいというわけではない。それ以上のことを実現できるようにするのも社会なのだ0たとえば、われわれは物質的な幸福を確保したい。ある程度の豊かさが必要だ。それを可能にするのも社会だ。そして→まだある。
社会のなかに身をおいてこそ、精神的にも充実した暮らしが営めるのである。
よい社会とは、われわれが自らの可能性を追求できる環境を与えてくれるもの。
自分の人生に大した意味はないと感じている人は多いかもしれない。
人生の意味などあらためて考えたことがないという人も少なくないだろう。
そんな人びとにとって、人生の意味はきまりきった日常のなかの小さな出来事がときおりもたらしてくれる喜びにあるのだろう。 だが、人生の意味をどんなレベルで見いだすにせよ、そこでは社会環境が決定的な役割をはたす。そこで、他者にも自分にも喜びを与えてくれるものとして、われわれ丈ひとりが取り組める仕事がある。よりよい社会をつくるために努力することだ。
われわれがその仕事に従事するには、社会が行政システムを監督できるという基本条件が必要。権力はなんらかのかたちで制御されなくてはならず、それがあってこそ、より幸福な社会という目標に向けて権力を機能させられる。 だから、政治システムには目標が必要なのだ。 --------------------------------------------------------------------------------
不運にも収入の少ない人々にたいする快適な生活を保証するセーフティネットをつくるなど、国としての役割を果たすものである。しかし政府のこのような権限が奪われる事態が生まれることがある。一九九〇年代初頭、多くの国々の間で、毎日一兆ドルにものほる通貨取引が行われるようになった時、各国政府は、顔の見えない通貨トレーダーや証券投資家、多国籍銀行家に対してその影響力をほとんど失ってしまった。トレーダーや投資家たちは、莫大な資本を操作することで、ある国を繁栄に導いたかと思えば、別の国を破壊に導くことさえできるようになった。政府は、これをただ指をくわえて見ているしかなくなつた。われわれはたとえ実際には難しいとしても、国民として政府に対して間接的な影響力を行使することができる。しかし企業に対しては無力である。
各国政府は企業に対してもっと不利な立場に立たされている。
なぜならば、企業はどこでも税金の安い所でビジネス活動ができるからである。
その結果、今や政府の税収入が不足し、社会に対する義務を果たせない国が現れても不思議ではなくなった。グローバリゼーションに反対する人々は、こうしたこと以外にも多くの反対理由を押し立ててきている。ニユ−エコノミーのストーリーにもまた、疑わしい側面がある。
今日、経済の健全性は第一に株式市場における株価で測られる。
したがって大企業の多くの最高責任者は、市場がその企業にとって好意的に反応すること以外では行動しなくなる。またそうした経営が流行する傾向にある。一番良い例が、アメリカの企業組織のスリム化の傾向である。こうした傾向は、ヨーロッパにも波及している。 --------------------------------------------------------------------------------
従業員の大量解雇を断行すれば、株価の急騰が期待できる。そしてそれは企業のトップにとって全員ではないにせよ、高い報酬が得られることを意味する。
この例が物語るようにニュー・エコノミーは、大部分が一時的な流行で成り立っている。
人員削減に人気が集まることがその象徴である。
これまでも、大企業が何千人という従業員の解雇を発表すると、その企業の株価が急騰した。
だがその後の業績は惨憺たる結果に終わるケ−スがおおかった。
それでもなお、最高責任者が困ることはない。
彼らはたいていの場合、大量の自社株を持っている。
たとえ自分の会社を一部、経営破綻させたとしても、その前に持ち株を売却してリッチになれる。
市場を最良の審判者として仰ぐビジネス環境が登場してきた、と言えるだろう。
賃金の引下げ時期や解雇すべき従業員数までも、市場が決定すべきだと信じられている。
特に重要なことは、他の企業の例に見習わなければ、生存競争に勝つことが不可能であるという風潮である。このようなビジネス環境では、企業が従業員教育を伴う基礎研究などのような公共利益につながる事業に投資することなど、市場のいくつもの要因が許すはずもないことは容易に想像がつくだろう。こうして、グローバリゼーションが生み出す混乱と矛盾は、次第に現実の変化とともに大きな対立と分裂の様相を現し始めている。 --------------------------------------------------------------------------------
戊辰の役で、官軍と徳川家両方に資金を出していたしたたかな商人もいて、これはいまでも日本を代表する商社になっています。 むかしの商人はどうやって情報を集めたのか、あるいは、情報の集まる場所に拠点をおいたのか。
幕府の場合は、「天領」というネットワークを全国に張りめぐらし、貴重品の特産地や交通の要所、流通の拠点を「天領」にしましたから、商人もそれに便乗しました。
民間レベルでいうと、近江商人、伊勢商人という言葉で代表されますが、その伊勢の場合、東京のデパートでいうと、松坂崖、松屋、伊勢丹が、伊勢につながっています。
その松阪出身の三井が、越後屋と合併して三越と、ここも伊勢につながり、デパートはすべて、呉服屋として出発します。 この情報収集が「お伊勢参り」でした。
旅のできない時代に、唯一、全国から人が集まってくるのが伊勢路。
人が集まるということは情報が集まるということで、「松板木綿」という江戸時代のヒット商品は、この情報で織られたといってもいいのです。
いま世界のファッションをとりいれるように、日本中の藍木綿がお伊勢参りで集まってくるのですから、その良いところを松坂木綿にとりいれて、出荷する。日本中が藍木綿を着ていた時代ですから、この流通が、江戸の呉服屋を豊かにし、その資力が今日のデパートになりました。そのデパートも、いまは不景気の波にもまれているのは、ご存じのとおりです。 --------------------------------------------------------------------------------
情報と付加価値。 これは最先端のマーケットプラン。
江戸時代にも学ぷべき商法があるということです。 しかし、士農工商という身分制度は歴然としていましたから、財産を蓄えた商人であっても、武士には頭を下げるわけです。
実質的に世の中を動かしているのは商人でありながら、身分制度はくつがえせません。
明治維新、戊辰の役をへて、四民平等、表向きは身分に差別がないということになり、明治一〇年、西南の役になると、豪商が政治を動かすのが見えてきます。
商人たちは資金を提供し、それを返してもらうかたちで軍国化に加担していきました。
⇔カッコウ