厚狭〜長門市間 炭坑輸送から観光路線へ 美祢線46.Okmへ
山陽新幹線の厚狭駅停車を機に,厚狭〜長門市を経由して東萩までの快速「北長門」が2往復設定。
キハ58 キハ120
キハ58
キハ120
厚狭〜長門市を経由して東萩までの快速「北長門」が2往復設定され土曜・休日や長期休暇期間等にキハ58系で運転されている。普通列車は厚狭〜長門市間の折返し運転が基本で,この他朝の通学対策として休校日を除いて美祢→長門市間の列車も設定されている。車両はキハ120型で,1〜2両編成で運転される
中国地方のローカル線 > 美祢線
 駅      ローカル駅の風情が漂う厚保駅⇔
厚狭 あさ 明治33年12月3日 山口県厚狭郡山陽町厚狭
湯ノ峠 ゆのとう 大正10年2月10日 山口県厚狭郡山陽町厚狭
厚保 あつ 明治38年9月13日 山口県美祢市西厚保町本郷
四郎ヶ原 しろうがはら 明治38年9月13日 美祢市東厚保町川東
南大嶺 みなみおおみね 明治38年9月13日 美祢市大嶺町西分
美祢 みね 大正5年9月15日 山口県美祢市大領町東分
重安 しげやす 大正5年9月15日 山日県美祢帝大額町北分
於福 おぶく 大正9年10月30日 山口県美祢市於福町下
渋木 しぶき 大正13年3月23日 山口県長門市深川湯本
長門湯本 ながとゆもと 大正13年3月23日 山口県長門市深川湯本
板持 いたもち 昭和33年7月25日 山口県長門市西深川
長門市 ながとし 大正13年3月23日 山口県長門市東深川
⇔JR美祢線美祢駅 
ディーゼルカーで温泉めぐりの旅
近代日本を支えた炭鉱業。その発展を支えた路線の1つ美祢(みね)線誕生のきっかけは日露戦争だった。大嶺(おおみね)炭坑は良質の無煙炭を産出する海軍所有の炭坑だったが、開戦によって石炭の需要が一気に高まり、輸送のための鉄道線が計画されたのである。厚狭(あさ)〜大嶺間が開業したのは1905(明治38)年9月13日。
しかし同年5月の日本海海戦によって雌雄は既に決し、9月5日には講和条約が結ばれている。美祢線は日露戦争には間に合わなかった。その後、大嶺の手前の伊佐(現在の南大嶺)から先が軽便鉄道として建設され、大正末に正明市(現在の長門市) まで開通している。さらに仙崎まで開通したが、この区間はのちに山陰本線に属す嶺)ることとなった。美祢地方は石炭をはじめ、とにかく豊富な鉱物資源に恵まれている。昭和30〜40年代の炭坑の最盛期には石炭輸送で、1970年の大嶺炭坑閉山後も石灰石輸送で、美祢線は長い間、鉱物輸送によって賑わってきた。しかし今では、石灰石輸送も大部分をトラックに取って代わられ、鉄道による輸送はわずかな量に過ぎない。また閉山後も細々と走っていた南大嶺〜大嶺間の支線も、1997年に廃止されている。 現在の美祢線は、ディーゼルカーが1日10往復程度走る典型的な地方ローカル線である。美祢地方の鉱物や炭坑の歴史について知りたければ、美祢市歴史民俗資料館や美祢市化石館に立ち寄ろう。どちらも美祢駅から歩いて行ける。また美祢駅の次の重安が、石灰石の積み出し駅。往時の賑わいをしのばせる巨大な施設が今も残り、細々とではあるが現在も使用されている。灰石輸送の買物列車は1日1往復ながら現在も運行されている。湯ノ峠一厚保閤⇔
さて、鉱物輸送以外の美祢線の特徴といえば、やはり温泉ではないだろうか沿線にはぶらりと立ち寄れる温泉泉が多くある。
 美祢線(みねせん)は、山口県山陽小野田市の厚狭駅から山口県長門市の長門市駅に至る。山口県を南北に貫く地域輸送路線である。沿線には秋吉台・秋芳洞への玄関口美祢市や海上アルプスと呼ばれる青海島がある長門市などを控えている。石灰石などの貨物輸送が多かったため幹線に指定された。
⇔JR美祢線美祢駅
路線距離(営業キロ):全長46.0km  厚狭〜長門市間 46.0km  厚狭〜重安間 (22.3km)  軌間:1067mm
駅数:12駅(起終点駅含む)
複線区間:なし(全線単線)
電化区間:なし(全線非電化)
全て普通列車で、2時間に1本程度の運行になっており、約半数が山陰本線仙崎支線まで直通し、厚狭〜長門市・仙崎間折り返し運転を行っている。全列車キハ120形によるワンマン運転を実施している。
かつては、益田方面から九州方面に至る急行列車「あきよし」が通過していたが、1985年に廃止となっている。一時、「北長門」や期間限定で「金子みすゞ号」や「萩・津和野号」といった臨時快速列車も運転されていたが、元々閉塞区間が長く、速度制限区間も各所に点在しているため、駅通過による速達性が十分発揮できなかったためか、所要時間が普通列車と1分ほどしか変わらなかった。金子みすず
かつては美祢駅から宇部線の宇部港駅との間で石灰石運搬の専用貨物列車(DD51形+セキ8000形貨車)が昼夜を問わず多数運転されており、旅客輸送を補ってあまりあるほどの収益をもたらしていたが、主たる顧客であった宇部興産が自社の専用道路を開通させ、石灰石輸送を全面的にシフトさせたこともあり、宇部港駅向けの石灰石列車は1998年に廃止となっている。
厚狭〜南大嶺〜大嶺間は、大嶺から産出される石炭を運ぶために山陽鉄道が1905年に開業させた。翌年国有化され大嶺線となった。美祢線に編入後、大嶺支線と呼ばれていた南大嶺〜大嶺間は1997年に廃止された。
1905年(明治38年)9月13日 - 山陽鉄道 厚狭〜大嶺間が開業。
1906年(明治39年)12月1日 - 山陽鉄道が国有化。
1909年(明治42年)10月12日 - 線路名称制定、厚狭〜伊佐間を大嶺線とする。
1916年(大正5年)9月15日 - 美祢軽便鉄道 伊佐〜重安間が開業。        
1920年(大正9年)6月1日 - 美祢軽便鉄道が国有化され、美禰軽便線となる。
1920年(大正9年)10月30日 - 重安〜於福間が開業。
1922年(大正11年)9月2日 - 軽便線の呼称廃止に伴い美禰線に改称。
1924年(大正13年)3月23日 - 於福〜正明市間が開業。大嶺線が美禰線と新規開業区間を編入し美禰線に改称。
1924年(大正13年)11月3日 - 正明市〜長門三隅間が開業。この後山陰本線の一部となる区間が開業。
1933年(昭和8年)2月24日 - 正明市〜宇田郷間・正明市〜阿川間・正明市〜仙崎間を山陰本線に編入。
1949年(昭和24年)1月1日 - 伊佐駅を南大嶺駅に改称。
1984年(昭和59年)2月1日 - 南大嶺〜大嶺間の貨物営業廃止(大嶺駅の貨物営業は同年1月1日に廃止済み)。
1987年(昭和62年)4月1日 - 国鉄分割民営化により西日本旅客鉄道が承継。日本貨物鉄道が厚狭〜重安間の第二種鉄道事業者となる。重安〜長門市間の貨物営業廃止。
1988年(昭和63年)3月13日 - 南大嶺〜大嶺間でワンマン運転開始。
1989年(平成元年)10月2日 - 厚狭〜長門市間でワンマン運転開始。
1997年(平成9年)4月1日 - 南大嶺〜大嶺間(2.8km)が廃止。

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